日本とフィリピンの関係って?これからどうなる?

みなさんこんにちは、本日は日本とフィリピンの関係についてお話したいと思います。

■日本とフィリピンとの関係

両国の本格的な貿易が始まったのは1592年、豊臣秀吉によって朱印船貿易が行われるようになってからです。貿易に従事する多くの日本人が東南アジアに移り住み、各地で日本人町を形成し、フィリピンにもマニラ等に日本人町が作られました。1570年には20人ほどだった日本人居住者は、17世紀初頭には1,500人、最盛期には3,000人にもなりました。しかし、1633年以降の鎖国令によって日本人町は衰退し、やがて消滅することとなりましたが、再び1910年代に農園経営のための日本人労働者がダバオに大量に移民しました。1916年には町の日本人人口が1万人を超え日本人街が形成されました。良好であった両国の関係は、第二次世界大戦を転機に変わっていきます。

第二次世界大戦中の1941年12月に日本軍がマニラに上陸し、翌1942年中に占領しました。日本軍政下の経済混乱がフィリピンの民衆を苦しめ、日本軍に抵抗する目的を持った連合軍系の組織が、抗日ゲリラ戦争を行いました。これに対し、日本は支配を安定させるために1943年にラウ㆑ル氏を大統領として、フィリピンを独立させました。しかし、ラウ㆑ル政権は必ずしも日本のいうことをすべて聞き入れたわけではなく、地主支配の維持を図ったために、フィリピン親日派からも離反が相次ぎました。この戦争によって110万人のフィリピン人が犠牲となりました。マニラに20棟あった16~17世紀に作られたバロック様式の教会は2つを残して破壊されています。これらの被害は、両国の関係に暗い影を落としました。

1956年、日比賠償協定の締結によって日比間の戦争状態が正式に終結し、これに続いて1960年に調印された日比友好通商航海条約をきっかけに、両国の関係は改善していきます。今では、フィリピンに とって日本は開発援助、貿易、観光において貴重な資金源となっています。
1990年代においても両国の関係は良好なものでした。日本側の行為を謝罪した歴史的な事例として、2009年5月に藤崎一郎駐米大使が、2010年9月13日に岡田克也外務大臣が「バターン死の行進」について正式に謝罪を行ったことがあげられます。

現在、フィリピンにとって日本はアメリカ、香港に次ぐ3番目(2018年時点)の輸出相手国であり、輸入相手国としては中国、韓国に次いで3番目(2018年時点)に位置しています。外務省領事局の統計では進出日系企業数は前年比4.3%増加の1,502社(2017年10月)となっています。
また、フィリピンにとって日本は最大の援助供与国です。日本にとっては、フィリピンは最重点供与国の一つであり、対フィリピン援助額は日本二国間ODAの累計では、インドネシア、中国、インドに次 いで第4位に位置しています。インフラへの支援等、直接的に産業の発展に結びつくものも期待されていますが、特に初等教育分野への援助も求められています。

フィリピンは先に述べたように、平均的な出生率が高く、教育を満足に受けることができない子どもたちがいることも事実であり、この問題に対するアプローチは、長期的に求められると予測されます。問題の解決を目指して、日本とフィリピンの両国の更なる関係強化につながると考えられます。

また、フィリピン人の日本への出稼ぎも非常に多く、法務省の調査によると、在日フィリピン人が2017年末時点で292,150人と在日外国人数の約1割を占めています。2019年4月より介護業、外食業、宿泊業、建設業、造船・舶用工業、ビルクリーニング業、素形材産業、産業機械製造業、電気・電子情報関連産業、自動車整備業、航空業、農業、漁業、飲食料品製造業の14業種での単純労働を含めた就労を認める「特定技能1号」と家族滞在や在留期間更新が可能な「特定技能2号」いう在留資格が新設されました。これにより、今後も在日フィリピン人が増えることが予想されます。

 

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