皆様こんにちは、カンボジア駐在員の澤柳です。
さて、今回のテーマは「傍観者」です。
ドラッカーは、その著書の中で次のように述べています。
「傍観者自身に取り立てての歴史はない。舞台にいるが演じてはいない。
観客でもない。少なくとも観客は芝居の命運を左右する。
傍観者は何も変えない。しかし、役者や観客とは違うものを見る。違う見方で見る。」
ドラッカー自身、その著書で「自分は傍観者だということだった」という表現をしており、
自分が傍観者であるが故に、舞台上で演じるための役がなく演者でもない、
そして、それを見て楽しむことのできる観客でさえもない、舞台の袖に立っているような
第三者としての人間であったと認識しています。
その著書では更に、ドラッカーが小学3年生の頃、同じ年頃の友人達やその家族たちが集う
クリスマスパーティの席で、あるテーマについての独創的な意見を述べ、こどもたちは勿論、
大人たちからも注目をあびたというエピソードが語られています。
そして、他人と違ったものの見方をするのが、傍観者の宿命だ、と言っています。
このドラッカーの意味するところは、他人と視点が異なり、木とそれを構成している森を
見ることができる人間が傍観者である、ということです。
ここでの木と森の関係は、木が森の構成要素であるということでは全くなく、
木という小さい個別の事象に焦点を当てるあまり、森や山や大地といった更なる大きな事象を
見ることができなくなる、という意味です。
別の例では、道という1次元に焦点を当てるあまり、大地という2次元、そして空や宇宙といった
3次元を見失うことになります。
例えば、ドラッカーの著書で出てくるキーワードには、木と森に対応する言葉が散りばめられています。
<すでに起こった未来>に対しては、<過去から継続している現在>
<非顧客>に対しては、<顧客>
<予期せざる成功と失敗>に対しては、<予期していた成功と失敗>
後者のものは、私たちが通常目にするものであり、通常の視点である一方、
前者については後者の視点からでは視界から消えてしまい直接見えないもの、
そして傍観者の視点でしか見えてこないものになります。
この傍観者の視点こそ、実はドラッカーが大事にしている視点であります。
そして、傍観者は傍観者だからこそ、舞台に関して一切責任を負う必要はありません。
傍観者に舞台での責任を押し付けることは、一方で、舞台にいる役者の無責任でしかないのです。
しかし一方で、傍観者に見えるものは、舞台にいる役者からは見えず、
傍観者もまたその意味では舞台に貢献することができる存在です。
そして、傍観者もまた、舞台をより良いものにするために重要な一つの要素となり得ることを
舞台にいる役者は理解しなければなりません。傍観者を無下にしてはいけません。また、
傍観者の存在を否定してもいけないのです。
傍観者は、脇役で舞台に出ている役者よりもより大きな貢献をする可能性が十分にあります。
ドラッカーの視点のように、経営者は、彼らの言葉に十分に耳を傾け、
自らの視点を一度、二度、疑うことも会社をより良いものにする一つの方法なのだと思います。
澤柳 匠