週報について

その他

こんにちは、メキシコ駐在員の片瀬です。
週報とは凄く良いものですね。自分の考えを皆さんに伝えられる事はもちろんのこと、人の考えを聞くことができるものです。仕事で繋がりのある人でも、なかなかその人の「真の考え=真意」を聞く機会には恵まれません。特に上下の関係となってしまうとなおさらです。
もちろん週報を書いている人は、何のために書いているかという意義をしっかりと持っている方々ばかりだと思います。もちろん私も何のためという意義はしっかりと持っています。意義を持っている方は、自分の本音を修正して皆さんに伝える事が多々あります。ただ、私はこの意義にプロテクトされた週報を読むのが凄く好きなのです。

「真意」とは?
週報を書いている人は意義の設定を、誰、いつ、どこ、何においているのか。そのことを意識しながら週報を読むことによってその人の考えているもの、目指しているものがなんとなく見える気がします。書き方においても、自分の言葉で意義を伝える人、人の言葉を借りて意義を伝える人など伝え方ひとつとってもその人の人間性が見える気がします。その人の文章の中からその人っぽくない箇所(意義を持っている方は基本的に文章を意義で固めます)や裏のテーマがその人の本音であることが多い気がします。読み方を覚えるとその文章1つでそれを記載した人の事をいろいろと知ることができるものです。私も文章を書くのは好きなので意義の中に本音をまぶすことや裏のテーマを持って書くことは多々ありますが、文章をこの様に読む方も少ないので、分かる人だけが分かってくれているのだと思っています。これがブログや週報の良いところですね。書籍化されるとこうはいきません。さて、この本音が「真意」か、この意義が「真意」か、一体全体どちらでしょうか?皆さんは自分の上司、同僚、部下が持っている本音又は意義のどちらの考えを聞きたいですか?私は基本的には意義を大切にします。それは意義が未来を表し、本音は過去を表わすと私は考えているからです。

それでは意義が「真意」なのでしょうか?
ここが難しい部分であり、意義は確かに「真意」に近いものであると思いますが、それを達成することができるかどうかの実行可能性は、本音にあるのだと私は考えています。本音が意義を束縛してしまうことが世の中には往々としてあります。それでは反対に、いつも意義を主張している人が、ふと本音を漏らしてしまった場合には、それはその本音が「真意」だったのでしょうか?その本音が緩衝材になって、意義のスピードを完全に止めてしまったのであれば、それは確かに「真意」なのかもしれません。ただ、意義のスピードが完全には止まらずに再び意義が動き出した場合には、それは「真意」ではなかったと思うのです。その本音によって誰かに何を言われようとも、それは「真意」ではなかったことを理解し、意義のスピードを正常に戻す為の手伝いをするべきなのではないかと私は考えています。つまり「真意」とは、その意義と本音を含めた総合的な考え方、その人が持っている考え方それ自身が「真意」なのだと思うのです。そして部下から本音を言われてしまった時に悔いるべきは、本音を言わなければならない状況を我々が作ってしまったことなのだと。私を含めるシニア、アシスタントシニアは社員の本音の部分を観察できる機会を多く作り、その本音を支える存在にならなければなりません。前提としてしっかりとした意義を持っているか否かは重要ですが。時に他者の本音は自分に対しては痛く、耐えがたいもののこともあります。そして人は他者からの本音を受け入れることは容易にはできません。かくいう私もこの様に記載して、かつ、人とは本音で交わりたいと思っています。……が他者から本音をぶつけられてしまうとそれを受け止める事がおそらくできません。絶対にイライラします・笑。つまり世の中は、あたりまですが本音で語るようにはできてはいないのです。良く本音と建前と言いますが、私は、建前は2つに分類できると思っており(意義のあるもの、意義のないもの)、その1つが意義のある建前であり、上記ではこの意義のある建前を「意義」と記載させてもらっています。そして私が考えるべきことは、他者の本音をいかに意義とシンクロさせていくかだと考えています。まず、意義を持つこと、そしてその意義まで本音を引っ張りあげること。本音が勝手に崇高たる意義に代わることは絶対にありません。そのため、まず仕事に意義を持たせるために朝研などの仕組みが必要なのです。

本音の教育とは?
当社の朝研は社員に意義を持たせることはできます。頭のよい方なら朝研で何を伝えたいのか、当社の理念の本質は何なのかを容易に理解し、すぐに意義を見つけるでしょう。ただし、朝研の意義を理解し、当社にコミットしていたはずの人が当社を中退していきます。それは何故なのか?それはその人の本音を教育できていなかったからに他なりません。そもそも本音はその人個人そのものを表すものですので、教育なんてできる類のものではありませんが。それを理解した上で、ただ一つ教育の可能性があるとすれば、それは安心を与える事に他なりません。本来、これらは年の功として年長者が勝手に行ってくれるものですが、当社には年長者はほとんどおりません。そのため戦略的に本音の底上げを行わなければなりません。ただこれを更に難しくすることは、意義の教育とは違い1対全ではなく、1対1での対応となることです。経営者は意義の教育は容易にできますが、本音の底上げを行うことは非常に難しいのだと思います。組織がでかくなればなるほど1対1の対応ができなくなりますから。そのために経営者は安心を与える為の仕組みを作ります(自分を1と考えるのではなく会社自体を1と考えるようになります)。当社でいうCDDやグループ制度などです(もちろん安心を与えることは、これらの仕組みの1つの側面でしかありませんが)。しかし、これらの仕組みも時間が経過すると経営者の思惑とはかけ離れ、独り歩きを始めます。

仕組みが機能しない理由?
それは、それらの仕組みに従事する人が、社員の安心のベクトルを対会社ではなく、無意識に対個人(自分自身)にするべく、活動を行ってしまうためです。これを注意し、意識的に行わなければ安心のベクトルを会社に向けることはできません。そして安心のベクトルが会社に向かったとしたら、その安心のベクトルに報いるのは基本的には会社自体です。会社に向かった安心のベクトルに個人が報いることはできません。人は人と向かいあった時に自分自身を蚊帳の外におくことは無意識ではできません。そのため対個人に向けられた安心のベクトルを対個人が報いるという、会社としてはあまりありがたくない形に落ち着くのも自然の形といえましょう。ただし、意識さえすれば会社が何で(どの様な方法で)安心のベクトルに対し報いているかを伝えることは容易にできます。社員に対し、会社がどの様な形で報いているか、その価値を植え付けることはできます。そして新たな価値が根付くか否かは、説得力があるか無いかにかかっています。

説得力とは?
上記の例に対して答えるのであれば、その新たな価値それを利用したその人自身が成功している(ように見える)か否かです。もっと深いところを言えばその価値に本当に価値があるか否かですが…。さて、ここにいう成功とは相手からみての成功なので、一概に何が成功とはいえないものです。つまるところ、その成功は相手が勝手に作り上げた虚像だとしても良いと言えば良いのです。楽しそうに見えるだけでも、相手は何がそんなに楽しいのだろうと勝手に想像し、勝手に結論付けるでしょう。もちろん虚像である場合には、それが崩れる時がくるでしょうが。ただそんなことは知ったこっちゃない。虚像だとしても、虚像を見せる事によってその人はその価値に触れてみようとするので。そこからはその人の範疇、価値のあるものであれば勝手にその人が変わり、価値の無いものであれば何も変わらないのです。

比較対象の存在
ただ、その価値には、誰もが認める絶対的な価値があったとしても、全く変わろうとしない場合もあります。どの様な場合であると思いますか?それは比較対象がある場合です。つまり多様性の中では、価値は差額で証明するしかないのです。しかし、上記のような無形の価値を評価するにしても、その価値を金額的に評価することは非常にむずかしい。もちろん個人、個人によってその価値の価格設定は異なりますので、画一的な値段がつくことはまずありません。結局は社員の判断に委ねてしまうところがもどかしいと言えばもどかしいところです。ただ、「経営者はこの価値を設定する責務があり、管理者はこの価値を伝達する責務があり、社員はこの価値を判断する責務がある」と私は思います。経営者は意義においてこの価値を設定しますが、社員は本音において判断します。やはりつまるところは本音の教育なのかもしれません。

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

関連記事

ページ上部へ戻る