フィリピンの歴史の概略

みなさんこんにちは、本日はフィリピンの歴史についてお話したいと思います。

[スペイン領時代]

フィリピン諸島は、2万2,000年前はアジアと陸続きであったといわれています。水面が上昇し、アジア大陸から分類した後、東南アジアから多くの人々が移り住んでいきました。そのため、フィリピンでは今でも数多くの言語及び文化の異なる民族が暮らしています。
 14世紀後半から、中国やインドで海上貿易を行っていたイスラム商人の影響もあり、イスラム教もこのとき初めてフィリピンに伝わってきました。
 時を同じくして、1521年にマゼラン率いるスペイン船団がフィリピンへ到着します。彼らは武器の威力を背景に、フィリピン現地の有力者たちへスペインへの服従とキリスト教への改宗を求めました。しかし、スペインはリーダーであるマゼランを失い、完全な支配はできませんでした。
 支配が本格化したのは、1570年ごろからです。そもそも、香辛料を求めてフィリピン支配を行ったスペインでしたが、香辛料は発見されず、フィリピンは交易の中継地点としてみなされるようになります。
 また、1578年には当時有力なイスラム国であったブルネイがスペインに敗れるという事件もあり、次第にフィリピンでのイスラム勢力は下火となり、キリスト教が広く布教されていきます。スペインはフィリピンの運営で、麻やタバコ、砂糖などをアメリカ、イギリス市場向けに生産させました。以後、植民地支配は長く続きます。
 転機は1898年にアメリカがキューバ独立戦争へ介入し、同年4月に米西戦争が勃発したことから始まります。アメリカはフィリピンの独立に協力することを条件として、フィリピン独立を狙っていた秘密結社の指導者、アギナルドと手を結びます。彼は香港へ亡命していましたが、アメリカからの打診を受けて、独立運動を再開し、6月12日に、アギナルドは独立宣言をしました。8月13日に米軍はマニラにあったスペイン総督府を陥落させ、9月15日には革命会議を開催しました。一時的に政権はフィリピンにもどったものの、政治は安定せず、アメリカが統治することとなります。

[アメリカ植民地時代~日本の統治時代]

 アメリカは当初植民地政策をとっていましたが、フィリピンの自主統治へと移行させようと考えていたため、有能なフィリピン人の育成に力を入れ、ルーズベルト大統領は「フィリピン=コモンウェルス」(米自治領政府)を樹立させ、フィリピンは政府と大統領を持つことになりましたが、このときの政府はまだ、アメリカの傀儡政権であったといえます。
 第二次世界大戦中の1941年12月8日、日本の真珠湾攻撃があり、太平洋戦争が勃発します。1942年には日本軍はマニラを占領し、1943年にはアメリカ極東陸軍が降伏、事実上日本がフィリピンを征服します。しかし、日本軍は既存の統治機関を活用するようにしたものの、離反が相次ぎました。第二次世界大戦も終わりが近づくにつれ、日本軍とアメリカ軍の勢力が逆転していきます。1944年10月にはアメリカ軍が㆑イテ島で日本軍を破ります。また翌年2月にはマニラ市街戦が開戦、アメリカ軍が勝利を収め、日本軍からフィリピンを奪回しました。
 第二次世界大戦後、フィリピンは独立するものの、アメリカに依存した状態が続き、実質的にはアメリカ主導の政治が展開されました。

 

[マルコス大統領時代]

 1965年に自由党のフェルナンド・E・マルコス氏が大統領になると、マルコス独裁の時代に入ります。マルコス大統領は経済開発を最優先課題とし、外交的にも社会主義諸国と国交を結ぶ等、ある面では成功をおさめました。具体的には、1970年代に平均6~7%の経済成長を実現しました。
 政権後半になると経済的権益を支配する傾向が顕著になり、テロやゲリラが日常化していきます。特に、1983年に政敵の元上院議員ベニグノ・アキノ氏がマニラ空港(現在のニノイ・アキノ国際空港)で暗殺された事件は、国民の不満が表面化した結果です。政情不安を感じた投資家や企業は、他国へ逃避するようになり、フィリピン経済はこの期間低迷しました。
 マルコス大統領はこのような状況の中、1986年2月に自らがフィリピン国内で人気があるということを示すために突然の大統領選挙を行うことを決意します。しかし、1983年のベニグノ・アキノ氏の暗殺により、未亡人となったコラソン・アキノ氏も反マルコスを掲げて選挙に出馬しました。1983年の事件以後、コラソン・アキノ氏は国民の中で反マルコスの象徴として支持を集めていました。この選挙では、マルコス政権が開票操作を行いましたが、カトリック教会やアメリカ政府が非難し、国民もコラソン・アキノ氏のイメージカラーであった黄色のTシャツを身にまとい、約100万人がデモを行う、というエドゥサ革命が起きました。
 その後、コラソン・アキノ氏が大統領に就任することになり、マルコス大統領による20年以上に渡った長い独裁政治は幕を下ろします。同年マルコス氏はハワイへ亡命し、1989年に死去しました。

 

[アキノ大統領時代]

 新たに大統領に就任したコラソン・アキノ氏は、まだ政情が落ち着いていないこともあり、6年の任期中に、7度のクーデター未遂に見舞われました。1989年には軍反乱事件が起きたものの、アキノ政権はアメリカ軍の助力を得てクーデターを鎮圧しました。また、自然災害にも見舞われることが多く、1990年にルソン島中部で起きたバギオ大地震、1991年の ピナトゥボ火山噴火など、不運が重なった時期でもあります。これらの自然災害は、インフラの構築を遅らせ、ASEAN諸国からフィリピンが経済的に後退する要因になりました。
 1992年に大統領に就任したフィデル・ラモス氏は新自由主義的な民営化政策と規制緩和を徹底し、経済成長率の向上を実現させました。フィデル・ラモス氏は前述のエドゥサ革命時の国軍参謀次官であ り、フアン・ポンセ・エンリレ国防相とともに、マルコス大統領の独裁に反対して決起し、政権崩壊に貢献した人物です。国軍参謀総長として、コラソン・アキノ大統領を支え1988年1月、国防相に任命さ れました。アキノ大統領により後継者に指名され、大統領に就任してからは、国営企業の民営化と外資の誘致に力を注ぎ、発電所の建設など、多くの成果を残しました。ラモス氏のこのような経済政策は国民の支持を得て、1995年の議会選挙では多数派を占めます。しかし、この経済成長がもたらしたフィリピン国内の雇用拡大への効果は限定的でした。また、所得の面から、出稼ぎに依存するフィリピン経済の性格は維持されてしまいます。ラモス氏は1998年に退任しました。
 同年、ジョセフ・エストラーダ氏が大統領に就任しますが、2000年に政治的な不正が発覚し、下院により弾劾を受けます。市民デモも活発になり、任期満了前の2001年1月に退任してしまいます。2001年からは当時副大統領であったグロリア・アロヨ氏が大統領に就任しました。デモ・暴動や反乱が起こり、政情は安定しませんでしたが、2004年の大統領選挙に再度立候補し、100万票以上の差を付けて当選しました。
 内政政策としては、社会階層を超えた国民融和、反政府勢力との和平を重視し、また政局安定化の鍵として憲法改正(議院内閣制、一院制、連邦制への移行)を掲げました。外交面では、安全保障、経済外 交、海外出稼ぎ者保護を重視しつつ、中国、日本、米国との関係を重視しました。特に、海外出稼ぎ者保護及びエネルギー安全保障の点から中東諸国との関係を強化しました。これらの政策は一定の評価を得たものの、国内での支持率は高くありませんでした。
 2010年、ベ二グノ・アキノ3世は、国民の健康と教育に対する投資、また不正や貧困と戦うことを選挙公約として選挙戦を戦い、6月8日に行われた選挙で大統領に選ばれました。彼はコラソン・アキノ元大統領の息子です。政策として、増税反対、国内産業保護を訴え、「汚職なければ貧困なし」をスローガンに、中間層、高所得層に広く支持されています。優先政策である、官民パートナーシップ(PPP: Public Private Partnership)スキームによるインフラ整備事業を表明するなど、政府内の体制整備にも力を入れてきました。
 インフラ整備費については、2010年ではGDP比で約1.8%であったものを2015年には同4%にまで高まりました。インフラ整備が加速したことにより、民間投資の呼び水ともなりました。財政政策については、2012年には、酒・たばこにかかる税率を段階的引上げの法案を成立させ、不透明な税関の組織改革に取り組み、歳入は名目GDP対比で、2010年の約13%から2015年には約16%に拡大し財源確保も実現しました。
 汚職対策については、反汚職計画を策定し、問題への取り組みを始めた結果、世界各国の汚職撲滅のために活動しているトランスペア㆑ンシー・インターナショナルが毎年発表する腐敗認識指数ランキング では、フィリピンは2010年の134位から2015年では95位にまで上昇しました。
 経済成長も2010年から2015年までで、実質GDP成長率は、年平均6.2%を達成しており、政情も安定していたことは、これまでの政権と比較して、投資家や企業にとって好ましい状況であったといえます。

 

[現在]

フィリピンへの外国からの直接投資は一時期よりは回復傾向にあるものの、タイやベトナムなどの周辺諸国と比べるとむしろ溝が開きつつある状況であり、これは主に「不安定な政治」、「治安が悪い」などの印象がぬぐい切れていないことに起因すると考えられます。そのような中で2016年6月30日、ダバオ市長を務めたロドリゴ・ドゥテルテ氏が第16代大統領に就任しました。任期は6年です。ドゥテルテ政権もまた、前アキノ政権の財政、金融、貿易等これまでのマクロ経済政策を継続・維持する方向でいます。ドゥテルテ大統領は、官民パートナーシップの活用やインフラ整備費をGDP5~7%に拡大させたインフラ整備の加速、そのための財源確保に向けた法人税率の見直しや関税の徴収漏れの強化による財政改革、さらに外資誘致のための外資規制緩和を進めるなどの方針を掲げています。中でも最も特徴的であり、国内外で様々な反響を呼んでいるのが、麻薬の取締りを中心とする犯罪撲滅を最重要政治課題としている点です。ドゥテルテ大統領は、検察官出身というその職歴が物語るように、ダバオ市長時代から積極的かつ強硬に進めていた治安対策を大統領就任後も推し進めています。また、関税局や内国歳入庁の職員に対する汚職の情報収集を始めるなどの汚職対策といった方針を強化する姿勢を見せています。
 他方、対外関係においてドゥテルテ氏は日本、アメリカ、ロシア、中国などの国々と多面的な外交関係を模索しており、その中で既に2017年1月には日本から政府開発援助(ODA)や民間投資を含む5 年間で1兆円規模の投資を引き出すことに成功しました。
 このように、国内ガバナンスの改善と対外関係構築の両輪がうまく噛み合えば、国内における民間投資の拡大や海外からの直接投資の誘致につながり、更なる経済成長の実現につながっていく可能性は十分にあると予測されます。

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